動物に育てられた人間の事例!幸か不幸か野生児の実態とは

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

野生児と呼ばれる人たちがいます。

 

ターザンとか、『もののけ姫』のサンとか。

「動物に育てられた人間」ということですね。

 

現実にもいます。

 

 

「動物が人の子を育てるなんてあり得ないでしょう」

 

そう思うんだけど、そんな事例はいっぱいある。

 

 

 

フィクションの野生児といえば……

 

「純粋な心を持ち、動物たちと強い絆で結ばれている」

 

「カッコいい動物使い」

 

「高い身体能力を持った戦士」

 

こんな印象じゃないでしょうか?

 

 

しかし、現実の野生児は悲惨そのもの。

 

人としての大事なものを失い、社会に馴染めないで早死にする。

 

動物に育てられた人間の記録は、どれも壮絶です。

 

 

彼らはなぜ、

どのようにして動物に育てられたのか?

 

他者と交わらずに生きた人間は、

どうなるのか?

 

人間の精神や愛情と、

動物のそれらは違うのか?

 

野生児の存在は、

「人とは何か」という哲学を文明人に突きつけるものなのです。

 

<スポンサードリンク>

 

世界中で見つかっている野生児

 

 

この記事で取り上げる「野生児」とは、

・動物に育てられた人間

・動物と共生し、野生化した人間

です。

 

野生児には、

「幼少時に長期間、幽閉・隔離され、

他者と交わることができず、情報も与えられず、獣のようになった人間」

もあるのですが、ここでは省きます。

 

 

動物と暮らすことで、その動物のような生態になってしまった。

 

もっとも有名な話は、インドの狼少女アマラとカマラでしょう。

 

<スポンサードリンク>

 

オオカミに育てられたアマラとカマラ

 

1920年。

インドに赴任していたキリスト教伝道師のシング氏が、

オオカミと暮らす二人の少女を発見します。

 

8歳ほどと、1歳半ほどの少女でした。

 

 

シング氏は二人を保護。

 

自分が営む孤児院へ連れてゆき、

1歳半をアマラ、8歳をカマラと名付けます。

 

 

しかし、二人の行動は完全にオオカミ。

 

四つ足で歩き、夜は遠吠えをする。

言葉は喋れず、唸り声をあげる。

嗅覚・聴覚は並外れてよく、

生肉にかぶりつく。

 

それは「人間」の姿をしたオオカミそのものです。

 

 

アマラは、保護されて一年足らずで病死。

 

カマラは、二足歩行やいくつかの言葉を覚えますが、

1929年にやはり病死しました。

 

似たような話は世界中で報告されています。

 

 

動物に育てられた人間の事例

 

・ヘッセンの狼少年

 

1340年代。

ドイツのヘッセンでオオカミと行動する少年が捕まる。

 

 

 

・デビルズリバーの狼少女

 

1845年。メキシコ。

ヤギを襲ったオオカミの群れの中に10歳ほどの少女がいた。

 

一度捕らえられるが、逃亡。

1852年に再び目撃されたのを最後に、

行方不明。

 

 

 

・ダチョウ少年

 

20世紀初頭。

6歳の少年が家族とはぐれ、

ダチョウと10年行動した。

 

その間は、

昆虫などを食べて過ごしたのだそう。

 

噂を聞いた家族が迎えに来て、

社会復帰を果たす。

 

 

 

・ヒョウと育った少年

 

インドで1912年、2歳の少年がヒョウにさらわれた。

3年後にヒョウは射殺され、保護される。

 

長年の四足生活で、少年の膝は固く、つま先が直角に上に曲がっていた。

 

保護された直後は人に咬みつき、

生肉を食べた。

 

 

 

・コロンビアのサル少女

 

1954年。

5歳のマリーナは誘拐され、

ジャングルに置き去られた。

 

その後、ノドジロオマキザルの群れと5年間暮らす。

 

食中毒になったマリーナに、年長のサルが水を飲ませて毒を吐かせ、

助けられたこともあったそうだ。

 

 

言葉は忘れ、

保護されたのちは風俗店に売られたり、

奴隷にされたり苦労した。

 

成人してからは結婚して平和な家庭を築き、

サルと暮らした日々を書いて出版。

 

 

 

・カモシカ少年

 

1960年。

サハラ砂漠で、カモシカと暮らす少年が見つかる。

 

捕獲はされなかった。

 

 

 

・ウクライナの犬少女

 

オクサナ・マラヤは、

両親が育児放棄したため、

3歳から8歳まで(1986~1991年)犬小屋で犬と生活した。

 

四足で走り、吠えたりする様子は犬そのものだった。

 

施設で言葉は覚えたが、時々犬のような行動をした。

 

 

 

・サル少年

 

ウガンダのジョン・セブンヤは、

3歳のとき父親が母親を殺害するのを見て、怖くなりジャングルに隠れた。

 

1988年から1991年まで、サルと過ごしたという。

ジョンの全身は毛で覆われ、サルのようになっていた。

 

保護後は回復し、美声だったことで聖歌隊のスターになった。

 

 

 

上に挙げたのはほんの一部。

育てる動物も他に、

「ブタ」「クマ」「ヒツジ」「ニワトリ」

などさまざま。

 

なにかの理由で親元を離れた子供が、

動物と行動する形ですね。

 

紹介した事例と重複してるものもありますが、動画でもどうぞ。

<動物に育てられた人間7選>

 

 

独りで生きられない子供と一緒にいる動物。

一見「美しい話」と感じます。

 

しかし、野生児の社会復帰はとても難しいようです。

 

 

野生児は人間に戻れない?

 

野生児の末路は多くが不幸です。

 

たしかに、成長するうえで大切な幼少期を、

「人間」として過ごせなかったんですから、

知恵も精神も足りないのはしかたありません。

 

 

野生児の特徴は以下のものです。

・動物に育てられた人間

・四つ足で行動する

・暑さ・寒さを感じない

・調理された食べ物に無関心で、生肉を好む

・羞恥心がなく、服を着せても嫌がる

・人間に攻撃する、または避ける・逃げる

・感情に乏しい

など。

 

やはり「どこかが欠けている」印象ですよ。

 

 

中には新たに教育され、幸福な生涯を送った元野生児もいます。

 

でも、一度は動物として形成された「魂」

なかなか修正は難しい。

 

これは「人間」を考えるケースでもあります。

 

 

ヒトがヒトという動物を作る

 

「人間とは“生まれる”ものではなく“作られる”ものだ」

 

僕はそう思います。

 

生まれたばかりの赤ちゃんは、

ただの動物です。

まあ、見た目も赤ザルって感じですが。

 

両親や家族、友人と触れ合うことで、人間という動物になるのでしょう。

 

 

人間と動物の差は、魂とか精神の差といえるかもしれません。

 

野生児は、

「魂が作られる」期間を持てなかった。

 

触れ合うのは動物で、

心まで動物に作られたのです。

 

 

「三つ子の魂百まで」というように、

幼い頃に作られた、

マイルールみたいなものって、

大人になってからも変えられないですよね。

 

野生児が、簡単に人間に戻れるわけがありません。

 

 

 

逆に「人間は動物の一種」とも実感します。

 

もちろん、

人はオオカミやサルにはなれない。

しかし、

動物たちと同じ暮らしができてしまう。

 

「人間は知能が高いだけの弱い動物」

ではないのでしょう。

 

ちゃんと、野生も残している。

そうじゃないと、動物とは暮らせません。

 

 

僕らは自分が思っている以上にタフなのかもしれない。

 

 

 

野生児の物語が、時に「人間讃歌」と感じられるのは、

人の「心」と「強さ」の証明のようだからではないでしょうか?

 

だから、動物に育てられた人間は興味深いのです。

 

 

でも、根本的な疑問も湧きませんか?

 

「動物は本当に人間を育ててたの?」

 

最後に、そこにも触れておきましょう。

 

 

動物に人間が育てられるのか?

 

野生児の記録は数多い。

ところが調べてみると、疑わしいところもあります。

 

例のアマラとカマラもそう。

 

ほとんどは保護したシング氏の記録で、

「オオカミに育てられた」

という客観的な証拠がないんですよ。

 

 

少女らは単に、自閉症などの子供で、

時々オオカミのような行動に走ることから、

「狼少女」

と触れ回っただけだといわれます。

 

孤児院の宣伝にもなっただろうし。

 

 

 

このように、野生児の話は証言に頼ることが多い。

 

また、特殊なケースのために「特別患者」みたいに公にされにくく、

話だけが膨らんでいった可能性も否定できません。

 

 

「じゃあ作り話なのか?」

 

すべてを嘘とするには数が多いし、

話も具体的なので、そうはいえません。

 

僕は「動物の母性」も信じたいのです。

 

 

愛は種族を越える?

 

イヌが、ネコの子に乳を飲ませる。

そんな、異種間で疑似家族になる例は、

わりと起こります。

 

肉食獣が、

獲物の草食動物の子を育てるケースもあるんです。

 

 

人間を含め、

多くの生物には「母性」がある。

 

人間が動物を可愛がるのも、

母性のひとつです。

 

野生児の例は、それが逆になっただけとも思えませんか?

人間のほうがペットになってるというか。

 

 

野生で暮らせない孤独な子供が頼れるのは、身近な動物だけ。

 

困った顔して近づいてくる変な動物(人間の子供)に、

僕らが、雨に濡れた捨てネコを見捨てられないのと、

同じ感情を持つとしても不思議はない。

 

で、家に連れ帰って、お母さんに怒られたりしちゃうんですよね~。

 

 

「守ってあげたい」欲求は、

種族を超えて、

起こる感情なのかもしれません。

 

それは動物のほうが、人間よりずっと純粋な衝動ではないか。

 

 

野生児の物語は、どこか美しく語られるものです。

 

動物の群れは、家族も同然。

 

そこに人間を迎えてくれた、

「動物の母性」が、

あまりにも「打算のない優しさ」だからなのでしょう。

 

人の家族もこうありたいものですね。

 

<スポンサードリンク>

 

幸せなのか?不幸なのか?野生児の実態~まとめ~

 

動物に育てられた人間の事例は、

世界中で見られます。

 

動物もいろいろで、驚かされますよね。

 

 

野生児は「不幸」であり、「幸福」でもあります。

 

人間が持つべき精神を育てられず、獣のようになってしまった。

一方では、愛情溢れる家族に加われたともいえます。

 

このパラドックスな感じが、

心に突き刺さる。

 

 

現代もネグレストやDVなど、子供が居場所を失う家族問題が多い。

 

野生児や浮浪児を救うのは、

「愛情」だけです。

 

動物に育てられた人間の話は、今こそ考えるテーマなのかもしれません。

 

<スポンサードリンク>
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

SNSでもご購読できます。

コメントを残す

*

This site uses Akismet to reduce spam. Learn how your comment data is processed.